徒然CURIOSISM

同人サークル「CURIOSIST」主宰・朝森久弥の雑文の集合体です。

私の生い立ちについて。その1

私は昭和の末期、さる田舎県の郡部*1中流家庭に生を受けた。
父は高専卒のエンジニア、母は高卒の専業主婦。4人きょうだいで私が長男。
私が生まれた頃はかろうじて、近所に商店街なるものが存在していたようだが、シネコン付きのショッピングモールに駆逐され、今では見る影もない。実家から最寄りのJR駅までは車で通うのが普通。小・中学校の通学路は田畑に囲まれ、夏は農薬、冬は野焼の煙が公道にまき散らされ、困った記憶がある。


私の家系は親戚も含めて決して高学歴では無かったが、その割には、我が家の教育環境は恵まれていた。とくに母方の祖父には幼い頃から可愛がってもらい、ランドセルやら学習机やらこども学習事典やら地球儀やらを買い与えてもらっていた。実家にはピアノがあって*2、小学生の時はピアノ教室にも通わせてもらっていた。家の本棚には父が高専で使っていた理系な教科書が並んでいた*3。このように、実家周辺の核家族世帯の中では、中の上の文化的環境が整っていたように思う。
特筆すべきは、父が毎週少年ジャンプ・マガジン・サンデー・チャンピオンを買ってくる習慣を持っていたこと。母親も「マンガくらい読め」という教育方針だったので、私らきょうだいはもれなくマンガ大好きっ子に育った。加えて私は毎月小学館学年誌を買い与えられていて*4、そこで出会ったやぶうち優の「少女少年」は、私の異性観・性癖に割と大きな影響を与えている。
世間一般の娯楽はとくに制限されず、「クレヨンしんちゃん」も「学校へ行こう!」も見ていたし、スーパーファミコンミニ四駆ポケモン遊戯王カードも遊んだ。ただどういうわけか実家のテレビゲームは任天堂ハードしか無く、プレステのゲームは友達の家でしか遊んだことが無い。
小学校低学年の頃には運動音痴であることを自覚していて、学校での休み時間はもっぱら図書室で過ごしていた。小説はあまり読まず、社会・理科の資料集や地図の類をよく読んでいた。当時から、フィクションよりもノンフィクションの本を好んでいたと思う。
小学生男子は「運動が出来る子=人気者」だが、私はその路線は歩まず、独自の戦いでそこそこ楽しんでいた。たとえば、学校への持ち込みを禁止されていたバトルえんぴつを自作(普通の鉛筆に1〜6の数字を書き、チラシの裏にコマンドを記した)したり、カードゲームを作ったりしてクラスの男子たちとよく遊んでいた。勉強もクラスで2番目くらいにはよくできたし、スクールカーストなるものがあったとすると、そんなに悪い位置では無かっただろう。


小中学校のお勉強において、我が家の方針は一貫して「学校で完結しろ」だった。小学3年くらいのとき*5、私からの質問に親が答えなくなり、辞書を渡されて「自分で調べるか、学校の先生に聞け」と言われた。その指示を忠実に実行した私は、中学校に上がる頃には「質問魔」とのあだ名を拝命していた。実際、中学校では放課後ほぼ毎日授業の質問をしに職員室に通ったものだ。ちなみに、私の実家周辺で中学受験をした者はほとんどおらず、私と同じ公立小学校を卒業した同級生は1人を除いて同じ公立中学校に進学している。
中学1年のスポーツテストでクラス男子最下位だった私にとって、「お勉強ができること」は私の欠かせないアイデンティティとなっていた。実際、5教科の期末テストはクラスでトップか2番が定位置だった。当時、クラスメートの9割が塾か進研ゼミをやっていたが、私はそのいずれにも頼らず好成績を維持していることに誇りを持っていた*6。そんなだったから、当時僕が好きになった異性は「(自分以上に)お勉強ができる女子」ばかりだった。結局、隣のクラスの成績トップ女子の尻を追っかけて、市内の進学校(公立高校)に進んだ。


親に「中学のうちくらい体を鍛えるために運動部に入れ」と言われ、中学では卓球をやっていたが、高校では文化部である合唱部に入った*7。私は、前述した中学時代の同中女子に告ってあっさり振られた後は、合唱部内で動いたり動かなかったりしたけれども、詳細は語らない。ポイントは、超絶低レベルではあるが恋愛経験を積める環境に中高時代から身を置いていたということだ。合唱部は男女比1:9だったというのもある。
それはさておき、高校時代の私は恋愛よりももっと深刻な悩みを抱えていた。それは信仰アイデンティティだ。私の親は、私が生まれる前から某新宗教の信者であり、私も自動的にその教団の信者になっている。ところが、中3のときに初めて触れた2ちゃんねるで、自分の教団が盛大に非難されていることを知り、何を信じたらいいのか分からなくなったのだ。私はそれまで、教団の信者としてあるべき行動を取ってきた自負があった。けれど、そんな自分を非難する人が世の中にいて、善し悪しはともかく「人間として当たり前」では必ずしもないことに気付いた。教団行事を理由に学校を休むとき、小中学校では「家の都合で欠席します」と説明することに何の疑問も持たなかったが、高校になって、そのことがまるで悪いことを隠しているような自責の念に駆られた。「私はなぜ、人には言えない活動を熱心に取り組まねばならないのだろう?」と、教団活動に参加しながら煩悶した。
幸いにして、ごく一部を除けば人前で奇怪な行動を取る宗教じゃなかったので、信仰上の理由で多少の不便はあっても、問題なく日常生活を送れていた。ただ教団の教義は、私が無駄に学を身に付けてしまったからか、時代遅れと言うか非科学的にしか感じられなくなっていった。また、信者の努力目標として課される教線拡大、つまり新規信者の獲得活動を、自分自身がやる意味を見いだせなかった。他の子が勉強なりスポーツなりして青春を謳歌してる中、私は教団のビラを近所のアパートに放り込んでいるのか。この姿を知り合いに見られたらどうしようか、と自分自身の境遇を呪った。
そんな中、私は高校で倫理の授業に出会った。そこで、世の中にはいろいろな宗教がいろいろな教義を説いており、自分の教団の教義はその中の一つでしかないことを知り、目から鱗が落ちた。
フランシス・ベーコンはかく語りき―「知は力なり」―と。
私はこの言葉に救われた。すなわち、私が思い悩んでいたのは無知による狭量が原因であり、あらゆる知識を得ることで人の精神は自由になれると考えるようになった。ならば、私は己の好奇心に嘘をつかず、自由の最大値を追求する、CURIOSISTとして一生を全うしたい、そう決心した。


さて、CURIOSISTとして生きると決めたなら、まず教団と距離を置かなければならないと考えた。そのためには実家から離れて一人暮らしをするのが都合が良かった。そのために、地元の国立大学よりレベルが高い大学を志望校にして、それはもうがむしゃらに勉強した。中学に引き続き「教育産業に頼らない俺カッケー」精神も健在で、金をかけなくても自分の好きな大学に入れることを証明したかった。結局第一志望には落ちて、普通は浪人も視野に入れるだろうところを、後期日程受験直後に予備校のパンフが家に届いたので「こんな下衆な業界のお世話になるものか!」とキレた。そして、後期日程で受かった国立大学に一人暮らしで通うことにした。親には、教団云々とは関係なしに「地元の大学ではなぜダメなのか」と何度も言われたが、理学部ならこっちのが研究レベル高いとか適当なこと言って納得してもらった。親が大学の事をなまじ良く知らなかったのは幸いだったし、子供の進路選択を尊重してくれる親で本当に感謝している。


ともあれ故郷を離れた私は、CURIOSISTとしての新たな一歩を踏み出した。
「その2」に続く)

*1:いまは合併して市になったが

*2:20年以上調律してなかったが

*3:まぁそれらは少ししか読まなかったけれども

*4:弟はコロコロ派だった

*5:辞書を渡されたのは小3のときなのは覚えているが、完全に質問に答えなくなったのは小6か中1くらいだったかもしれない

*6:学年トップ(塾通い)には一度も勝てなかったのが心残り

*7:もっとも、合唱部は「体育会系文化部」として吹奏楽部と並び称されている