徒然CURIOSISM

同人サークル「CURIOSIST」主宰・朝森久弥の雑文の集合体です。

私の生い立ちについて。その2

この記事は、2年半前に書いた「私の生い立ちについて。その1」の続きです。よろしければ先にその1をご覧ください。


高校を卒業した私は、地元から離れたところにある某国立大学の理学部に進学した。理学部を志望した理由は、高校生の時にこの世の根本原理を探求することに興味を持ったこともあるが、それ以上に親への対抗心の方が強かったかもしれない。というのも、父が高専卒のエンジニアで実学志向だったから、それなら私は虚学をやろうと思っていたのだ。もし工学部に進もうものなら、「初めから高専に行けばよかったのでは」と言われていただろう*1。その上で、高校の時は化学が得意科目だったので、化学科に入ることにした。
一方、私は大学に入学した当初から「世界一周をしたい」と念願していた。そのきっかけは、高橋歩という旅人が書いた「WORLD JOURNEY」という本である。高3のとき高校の図書室で手にしたこの本には、高橋歩をはじめ何人もの世界一周経験者の体験談が載っていた。その中に、4か月かけて100万円で世界一周した人が紹介されていて、これなら自分でもできるんじゃないかと思ったのだ。何より、好奇心旺盛な人=CURIOSISTとして生きると決めた私にとって、これほど分かりやすくエキサイティングな経験は他に思いつかなかった。


世界一周といえば、普通は最低でも半年、多くの人は1年以上かけてするのが相場だが、私にはそれだけの時間をかけられない事情があった。大学に進学するにあたり日本学生支援機構の「奨学金*2を借りていたし、実家の家計を考えても留年・休学は困難だったからだ。そこで、学部2年の約2か月間の夏休みで世界一周することとし、そこに向けてあらゆる準備を遂行した。
“わずか”2か月で世界一周するには世界一周航空券*3を使うのがベターだが、当時未成年の私が航空券を買うには親権者の同意が必要だった。そうでなくても、2か月“も”日本から離れるなら親に話を通すべきである。とはいえ、いきなり「世界一周してくるわ」と言っても反対されるのがオチなので、実績を作るため学部1年の夏休みに日本一周を行った。青春18きっぷを使った1か月弱の短い旅*4だったが、「この前ちょっと日本一周行ってきてさ。ところで、今度は世界一周したいんだけど」と言うことで、親の承諾を得ることに成功した。あとは、世界一周する直前までバイトに勤しみ、世界一周にかかる費用約80万円の大部分を自力で稼いだ。この間、学業もそれなりに頑張って某財団の奨学生に選ばれたり*5生協学生委員会なる激務サークルで活動したりして充実した学生生活を送った。


当初のもくろみ通り、学部2年の夏休みに世界一周を達成した私は、「世界一周ができたのだから、自分にできないことはそうそうない」という万能感に満ちていた。にもかかわらず、帰国後およそ半年間は、ネットの世界、具体的には2ちゃんねるに没頭することになる。オタク活動に目覚めたのもこの時期。友人に「ひだまりスケッチ」という萌えマンガを紹介されたことをきっかけに、学部2年の冬にコミケに一般参加するまでになった。コミケの熱気にあてられ、奥底に眠っていた創作意欲が沸々と湧いてきた私は、世界一周経験をネタにした同人ゲームを作ってコミケで出そうと思い至った。もともと子供の頃から遊びを作るのが好きで、高1のときにクイズゲームを作ったことがある私は、クイズゲームであればオリジナリティのある作品が作れると考えたのだ。それからというもの、大学の学業はそこそこにゲーム制作に没頭し、学部3年の夏コミで「クイズトラベラー -around the world-」を頒布することに成功した。
同人活動にすっかり夢中になった私は、コミケ以外の同人誌即売会にも顔を出すようになり、東京に頻繁に*6訪れるようになった。このころ、化学を一生の職業とすることに違和感を持ったこともあり、東京の大学院に進学して、新しいことを学びたいと考えるようになった。結果、学部4年の夏に、東京にある某国立大学の大学院の入試に合格し、大学院進学をもって化学から認知科学に専攻を大きく変えることにした。


2010年4月、田舎県の郡部生まれの私はついに東京都民となった。見るものすべてが新鮮で、慣れないなりに刺激的な毎日を送っていたが、やがて、日本の中にあるさまざまな格差を意識するようになる。
私が通っていた大学院は、誤解を恐れず言えば、格差社会の最上位の人々が集積するコミュニティだ。とくに、その下の学部学生や、その学部から内部進学した大学院生たちの多くは、都会の有名高校の出身で、私のような出自の人間に比べて、ずっと「恵まれた」環境で育ってきている。それは単なる生活様式の違いに過ぎないのかもしれないし、少なくとも学力面では全員同程度の水準以上だろう。けれども、この大学院に至るまでの道のり、すなわち教育機会の質と量では、都会と田舎で圧倒的な差があると感じた。
私の地元ではそもそも中学受験する人がまれであるのに対し、東京では5人に1人が中学受験する。私が通っていた大学院の下にある学部学生は、過半数が中学受験経験者だ。良質な教育環境を得るためなら多少の経済的負担はいとわない*7。大学院生になったし家庭教師でもしてみようかと業者にエントリーしてみたら、中学受験案件ばかりで公立高校出身の私はお呼びでなかった。「御三家」をはじめとする都内の有名中高一貫校出身であれば、時給3000円以上はザラらしい。そりゃあ彼らは私より賢いだろうが、一体どんな価値を売り買いしているのかと思うと、ゾッとした。結局、私は大学院生時代、教育産業のバイトには縁がなく、代わりに大学のTAや公立高校のチューター、教育系NPOのボランティア講師などを経験した。


同人活動や大学院での研究活動のほかに、上京したらやりたいと思っていたことに、「湯浅誠に会うこと」があった。湯浅誠とは、年越し派遣村の村長として知られる社会活動家で、私が大学院入試に臨んでいた2009年当時の時の人である。そのころの日本は、2008年に起きたリーマン・ショックの巻き添えを食らって景気が後退し、「派遣切り」が連日ニュースを賑わせていた。その少し前の日本はちょっとした好景気で、小泉純一郎政権が築いた新自由主義が日本を覆っていた。そうした背景もあってか、2ちゃんねるやそのまとめサイトでは生活保護バッシングを日常的に見ることができたし、社会的弱者=怠け者という自己責任論が幅を利かせていた。前述の通り、私はこの時期に2ちゃんねるに没頭していたものの、こうした言説にはどうしてもシンパシーを感じることができなかった。
私の下の妹*8は身体障碍を持っている。肢体不自由、つまり手足を自力で動かせない。しかも言葉も話せない。一生、車椅子と寝たきりの生活だ。生まれつきのものではなく、下の妹が幼いころにかかった病気が原因だった。それからというもの、どうして身内が、と嘆いている暇はなく、私たち家族はその時その時でやれることをやってきた。その中で、こうした境遇にならなければ知りもしなかっただろう福祉制度に幾度となく助けられた*9。誰もが「弱者」になり得るのだから、そうしたものを簡単に切り捨ててはいけない―原体験から来る素朴な発想だった。
年越し派遣村のニュースを聞いて湯浅誠に興味を持ち、彼の著作を読むと、私が漠然と抱いていた問題意識を共有し、もっと深く考察していることを知った。「貧困」を主なイシューとし、自己責任論はびこる世論に立ち向かう活動家。その姿が私には新鮮に映ったし、上京すれば会えるかもしれないとワクワクした。その願望は、大学院入学後わずか3か月で果たされることになる。と言っても、彼の小さな講演会を聞きに行ったに過ぎないのだが。その直後、私はめぼしい伝手をたどって、路上生活者支援のNPOに参加し、新宿の路上や公園で生活している人たちの話を聞いて回った。上京し、東京は豊かで恵まれていると実感する一方で、ホームレス状態の人が大勢いるといった問題を抱えているという現実を認識した。


やがて、大学院修士2年の後半に差し掛かり、同級生は次々と就職を決めていく中、私は博士課程進学を決心する。学振DC*10には落ちたものの、初めて恋人ができた*11こともあって、そこそこやる気に満ちた研究生活を送っていた。もとより、学ぶことが好きで、学んだことを人に教えることが好きだった私は、単に研究するだけでなく、教育にも携わりたいと思い描いてた。大学教員になれば、研究も教育もフリーハンドで取り組むことができる。それでいて社会的ステータスも良いしお給料も悪くないし。そんな甘ったれた魂胆を持っていたからか、博士課程に入ってからはこれといった研究成果を出せなくなり、次第に研究への興味が冷めていった。正直なところ、同人ゲームを作ったり、進学校Mapを作ってTwitterに公開しているときの方がずっと楽しかったし、本気で取り組めた。
極めつけは、博士課程1年の終わりごろ、修士課程の時の研究をまとめた学術論文を出版した時のこと。「この論文、結局同業者の何十人しか読まないんだろうな」と気づいたとき、「なんだ、自分のゲームや進学校Mapのほうが、たくさんの人に見てもらえるじゃん」と思ってしまったのだ。確かに、私の研究テーマはよっぽどニッチだった。けれども、ほとんどの研究論文は、同業者向けに書かれるものだ。うまくいけば人類の歴史を変えることもあるだろうが、第一に問われるのは、その研究分野の進歩にどれだけ貢献できるか。そこに喜びを見いだせる、つまりその研究分野を極めたいと思える人でないと、研究者は務まらないのだ。私にはその素質が決定的に欠けていた。


同じ時期、ある学会にポスター発表しに行ったとき、同世代の大学院生と知り合い、初対面ながらサシ飲みをすることになった。聞けば、彼女もまた研究だけでなく教育に携わりたいとのこと。「そうなると、研究中心大学ではなく、むしろ地方私立大学のような、教育ニーズが高い学校の教員になったほうがいいのではないか」という話で盛り上がった。ところが、そうした大学は大学教員の割には給料が安いし、下手をすると潰れる可能性がある。そもそも、そういう大学にしたってある程度の研究業績を積まないと採用すらされない。それならいっそのこと、高校教員になった方が手っ取り早いのでは―そう思うようになっていった。
大学教員には教員免許は要らないが、高校までの教員となるとそうはいかない。私はその時点で教員免許を取っていなかったが、あれこれやりくりすれば、大学院生でありながら免許を取れることが判明した。本来なら研究に割くべき時間を教職単位取得の時間にあて、さらに博士課程在学中に教育実習に行くという暴挙に出て、高校理科の専修免許状を取得した*12


2013年10月、博士2年の秋に、3度目の学振DC不採用通知が届く。これをもって、私は研究職に就くのを断念し、本格的に就活を始めた。一度は思い描いた夢を絶つのはそれなりに辛く、競争に敗れたことが純粋に悔しかったが、自分に本当に合った職を見つけるのだと意気込んだ。教員免許も取ったことだし、教員採用試験にも応募する一方、色々な職業の可能性を探った。すでに就職していた同級生から、「自分が本当にやりたいことをやるべきだ」というアドバイスをもらったので、結構真剣に考えてみたところ、
「確かな知識を提供するコンテンツを作り、それをできる限りたくさんの人に届けたい」
と思い至った。
振り返ってみれば、私は人生の半分をクイズゲーム制作に費やした。数あるゲームジャンルの中でクイズを選んだのは、一番プログラミングが簡単そうだからだったからかもしれないが、やがて、自分の作ったクイズゲームを通して、知識を楽しく学ぶ機会を多くの人に届けられている実感を持つようになってきた。そうは言っても同人ゲームなので、届けられる範囲は限られている。でも、企業の力があればどうだろうか?すでに販路が確立されたメディアだったらどうだろうか?そこにこそ、自分が興味を持ち続けられる、活躍の場があるんじゃないだろうか。
結果として、博士3年の春に、自分が納得のいく職場から内定をもらったので、教員採用試験を受ける前に就活を終えた。その後、取れるに越したことは無いと思って博士論文作成に取り掛かったが、人生そんなに甘くはなく、論文作成に着手できないまま大学院を辞めた。「博士課程満期退学」である。博士号は取れなかったが、自分が筆頭著者の査読付き論文は1本出せたので、研究者として最小限の痕跡は残せたと踏ん切りがついている。


就職することが決まったあと、実家に帰省した。大学教員を目指して長らく大学に通わせてもらったが、結局就職することにしたとを告げると、母から、
「あなたは『選べる人』だから、自分が良いと思う道を選べばいい」
と言われた。
私はこれまでの人生で、大抵のことは自分で選び、選んだ通りの道を歩んできた。高校受験、大学受験、大学院受験、就職。あるいは世界一周や同人ゲーム制作。そういう意味では確かに『選べる人』なのかもしれない。CURIOSISTとして生きるということは、自分の好奇心に素直になるということ。自分が本当にやりたいことを臆せずやり遂げるということ。
私の実家の学習机には、毛筆で『努力』と書かれた色紙が飾ってある。私の座右の銘のひとつだ。なんやかんやで色々なことに努力してきたという自負があるし、その結果として今の自分があると思う。けれども、私が幼いころから努力を続けてこられて、進路を選び取ってこられたのは、自分の周りの人の支えがあったからだし、つまるところ、運が良かったからだと思っている。
おそらく世の中には、私と同じかそれ以上の能力があったとしても、『選べない人』が大勢いる。
私は大学院時代から研究そっちのけで進学校Map作成に心血を注いだ。その中で気づいたことは、同じ日本という国の中でも、住んでいる場所によって得られる教育機会の質と量に大きな格差があることだった。これは進学校に限らず、それ以外の学校だったり、学校以外の教育産業、すべてにおいて言える。都会に生まれ育ち、かつ親に十分なお金を出してもらえるなら、いくつもの学校の中から好きな校風の学校を選べるかもしれない。一方、田舎では、学力レベルでほとんど自動的に進学先が決まり、高校の選択の余地はない。下手すると、自分の学力レベルに合った高校が通える場所に存在しないことも珍しくない。こうした地域による事情の違いが世間であまり知られていないままに、成果だけを見て「ここは素晴らしい」「あそこはダメだ」と評価される。悔しくてならない。


『選べる人』を増やそう。母の話を聞き、私はそう決心した。もし『選べる人』になりたくて、なれるはずなのに、環境がそれを許さないなら、それを変えていこう。その第一歩として、確かな知を提供するコンテンツを多くの人に届けよう。それによって、一人でも多くの人の人生の選択肢を増やしていこう。
仕事にせよ同人活動にせよ、それこそが私のライフワークだ。




知識の力で、一人でも多くの人を幸せにする。
それがCURIOSISTである私の、社会への挑戦であり、恩返しです。

*1:さすがに最近は、工学部あるいはその上の大学院出身の部下が増えてきたのか、違いが分かってきたようだが

*2:返済義務のある学資金を本来は奨学金=Scholarshipと呼んではいけないので、あえてカッコ付けで表記した

*3:世界一周するルートであらかじめ予約した航空券の束。私の場合はワンワールド加盟の航空会社が使える世界一周航空券を買った

*4:沖縄県を除く46都道府県を電車で回る旅。詳しくは日本一周に、行ってきました。を参照

*5:こっちは返済義務のない本当の奨学金

*6:最盛期は週1で。交通費がかさみ、もう東京に住んだ方が安いのでは思っていたが、東京の家賃の高さはその幻想を軽く打ち砕いた

*7:裏を返せば、東京の人は田舎県の人よりも教育に多額の出費を強いられているし、そのせいで困っている人が大勢いるのも承知しているが

*8:年齢は明かさないが、私が4人きょうだいの長子、下の妹が末っ子なので、相応に離れている

*9:こうした制度が現状で十分と言っているわけではない。私たちの家族は制度に加えて親戚の協力や周囲の理解もあってなんとかうまくやれていると思うが、うまくいってない人も多いことを知っている

*10:国が優秀な博士課程学生を特別研究員に選抜し研究費とお給料を与える制度。お給料は高くないが、特別研究員に選ばれること自体が、同世代のエリート研究者というステータスになる

*11:すぐに別れてしまったが

*12:中学理科の免許は時間がなくて取れなかった。教育実習の期間がさらに長くなることに加え、必要な単位が増えて研究室のゼミに出られなくなるためだった